上層で燃え広がった残り火から、未だに火の粉が降り注いでいた。
一行の周囲でも闇を焦がした炎塵が所々で燻り続けている。 それが幸いして、僅かだが視界が明るくなっている。
「風?」
暫く進むと、シャルロットが訝しげに眉根を潜める。 火の粉が揺蕩うように舞い上がっていく。
「下方から空気の流れがあるようです」
ミルフィーナの言葉通り、吹き抜けの中、闇の底から、僅かな空気の流れが感じられた。 湿気を含んだ気流は緩やかな上昇風となり、女守護騎士団長の長い銀髪を撫でるように揺り動かしている。
「ふぅ」
シャルロットが小さく息を吐く。 じっとりとした冷たい汗が少女の首筋を伝っている。
いつしか風に運ばれる冷気に、得体の知れない圧迫感が含まれるようになっていた。 それは腐敗臭にも似た瘴気。 周囲の空間が異質な存在へと変貌していく感覚。 だが、歩みを止めるわけにはいかなかった。
先頭を歩くミルフィーナの手がシャルロットの手に重なり、包み込むように握られる。
「どうやら、ここが最下層のようです」
立ち止まったミルフィーナの眼前の石壁に、金属で造られた重厚な両開きの扉が浮き上がっている。
内側の吹き抜けは更なる深淵まで続いていることから、この巨大な地下空間は、人為的に造られたものではなく、元から存在していた巨大な縦穴洞窟を利用して、女神の荒御霊を封じる棺と為したようだ。
「わたしが……」
「わかりました」
暫しの逡巡の後、ミルフィーナはその手を離すと、シャルロットに場所を譲る。
「このなかにアルジャベータが……」
シャルロットの手の平が扉に触れる。 指先から冷気が氷のように染み込み、形容し難い不安と恐怖が心に絡みつく。
光から遠く遮断された深い闇の底で、ひとり取り残されて生き続ける苦しみとは如何程のものであろうか? 何も知らず、安穏と地上で暮らしていた自分に、アルジャベータに逢う資格があるのか? そう想うと両腕に篭められた圧力が急速に薄らいでしまう。
「シャルロットさま」
横合いから伸びたミルフィーナの手が、再びシャルロットの手の甲に優しく重ねられる。
シャルロットは小さく頷くと掌に力を篭めていく。
「ここが……」
石室の内部は蒼白い色彩に満たされていた。
玄室―――封印の間に踏み入ると、その真正面に天と地を繋ぐ巨大な磔柱があり、十字に埋め込まれた朽ちた鉄環に首と両腕を拘束された人影があった。 胸から下は同化するように石柱に深く埋もれ、既に人の姿を為していない。
ただ、胸元に深く突き刺さる一振りの剣の存在が、その人物の正体を如実に物語っていた。
「アル……ジャベータ……」
掠れた声、シャルロットが引き寄せられるように歩を進める。
「ここから先はあの娘の戦いじゃ」
後を追おうとしたミルフィーナを首人アルフォンヌの言葉が押し止める。
シャルロットは玄室の中央に位置する十字架までの距離を、無限とも思える感情の揺らぎと共に進む。 辿り着いた先で、巨大な磔柱を見上げた少女の身体は小さく震えていた。
「アルジャベータ」
シャルロットは、もう一度―――今度は、はっきりとその名を口にする。
目の前にすると、アルジャベータは己と比べてもさして変わりがないような年齢の少女だった。 ずっとこの冥らい地の底で、永遠とも思える苦しみの中、孤独に耐えていたのだろう。 黄昏の聖女と称えられた金色の頭髪は白く斑に染まっていた。 彼女にとって“生”とはどのような意味を持つものであったのか。 それを考えると胸が詰まる。
無意識に伸びたシャルロットの手がアルジャベータの骨ばった頬に触れた時、
「ん……」
彫像のように微動だにしなかったアルジャベータの身体が小さく揺れる。
ゆっくりと開いた瞳は、虚ろな左右非対称の光彩―――深い哀しみの色を宿していた。 それは自分もよく知る人物、妹姫のプルミエールと同質の輝き。 この時、シャルロットは聖女のチカラが誰に継承されていたのかを、はっきりと認識した。
「アナタは……?」
「わたしは……」
「いいえ、わかる。 アナタからはアノ人と同じ匂いがする。 よかった、アグリウスタと私の大切な子供たちは未来を繋ぐことが出来たのね」
「……はい」
シャルロットはそれだけを発するのが精一杯だった。 自身がここに来た目的など伝えられるわけもない。 教会を包み込む無益で愚かな争いの為に、アルジャベータが命を掛けて費やした全てを無に帰すことなど出来るはずもなかった。
自分がとても独りよがりで矮小な存在に思えてならない。 だが、それでも捨てきれない願いがシャルロットを突き動かす。
「わたしは……わたしは、自分の身勝手な想いを遂げるためにここに参りました」
途切れ途切れに思いの丈を吐露する。
教会の混乱、リュズレイの血が背負った宿命、自分が果たすべきと信じている全てを。
「断ち切らなければならない。 古き慣習に縛られ、子を奪われる母がなくなるように。 種族や人種の違いで、命を奪われることがなくなるように。 そして、生まれや身分に左右されて、自分自身を見失う不幸な人間が生まれないように」
それはふたりの母と、教会の対面を保つ為だけに存在を抹消された御子へと向けられた言葉。 そしてなにより、シャルロットが自分自身に投げかけたものであった。
「その為に、この剣が必要なのね?」
アルジャベータの瞳が全てを見透かすようにシャルロットを射る。
「はい。 それがどれくらい身勝手なことかも心得ています」
「気に病むことはありません。 私が救いたかったのもアグリウスタと“あの子”だけだった。 身近な誰かを守りたい、その想いが私を聖女たらしめていたのですから。 アナタはひとりの人間として愛すべき存在を守りなさい」
アルジャベータの頬が幼い少女のように僅かに緩む。
「それに、永い時の流れの中で神剣の力は消えかけています。 私が人のカタチを保っていられるのも時間の問題でしょう。 なにより危惧すべき、メナディエルの魂の苦悩も久しく感じなくなりました」
「それでは、女神さまの魂は浄化されたのですか?」
シャルロットが尋ね返す。 ここに至る過程を考えれば、とても信じられる話ではなかった。 この神殿地下は未だにメナディルの冥い怨念で充満しているように思えたからである。
「わかりません。 神剣の守護が尽きれば、メナディエルの穢れた魂が解き放たれる。 それは、避けようがない現実でした。 ですが、ある時から急速に、女神の魂の波動が薄れていったのです。 今の私にはそれ以上のことはわかりません」
「そうですか……」
シャルロットは心許なげに表情を曇らせると、背後を振り返る。 玄室の入口で佇んでいる者たちも一様に判断がつかない様子だったが、ノーラの腕の中の首人だけが小さく頷いていた。
「わかりました。 ですが―――」
それでもシャルロットには払拭しきれない感情があった。 アルジャベータの残り少ない生を、己が断ち切ることへの罪悪感である。
「少なくともこの剣の所有者となる上で、女神にも私にも気を遣う必要はありません」
アルジャベータはシャルロットの心裡に淀む迷いを察し、全てを受け入れる意志を示す。
その覚悟に打たれたシャルロットはゆっくりと両眼を閉じる。
「わたしは生まれた時から聖女と崇められ生きてきました。 ただ与えられた運命を甘受して、そこに疑問など抱きもしなかった」
唐突にシャルロットが言葉を紡ぐ。
神聖などと崇められることが、どんなに愚かしく無意味なことであるかは自分自身の存在が証明している。 聖女の血脈など例え偶像であっても、事足りるのだ。 大事なのは生まれ持った資質などではなく、想いをカタチとして成し遂げる強さであることを。
「わたしにはこの剣の所持者足る資格などないのかもしれません。 それでもお譲り戴けますか?」
シャルロットはこの問いかけが何の意味も成さないことを理解していた。 しかし、それでも聞かずにはいられなかった。 その行為はアルジャベータの死に直結するのだから。 己に彼女の想いを受け止める資格があるのかを訊ねずにはいられなかった。
「アナタがアンネシュテフを受け継いでくれるのならば、私も安心してアグリウスタの元へいけます」
アルジャベータの言葉にシャルロットは無言で頷く。
そして、迷いも躊躇いもなく、決然と神剣の柄へと手を伸ばした。
「無駄にはしない。 これはわたしがわたしの意志で受け入れる“初めての”運命なのだから」
今なら理解できる。 なぜ、首人が自分に醜態ともいえる過去を明かしたのか、それは、物語の中心に居た者にしかこの輪廻の鎖を断ち切ることができないと悟っていたからであろう。
―――ありがとう……
アルジャベータの身体が塵となって消え去る寸前、彼女の口がそう象ったように見えた。
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